飽和49年10月23日 月次祭
真の信心と云う事が言われます。折角の信心をさせて頂くので御座いますから、真の信心を分らせて貰い、真の信心を身に付けさせて頂いて、一つ真のおかげに浴させてもらいたい頂きたい。真の信心という事は、どう云う事かと。金光様のご信心は真の信心で、○○様は真の信心じゃないと言った様な事は無い。金光様の信心を頂いておっても、真の信心を頂いていない人が、沢山ある証拠に所謂真のおかげを受けていない。是は合わせ鏡の様な物ですからね。
真の信心が出来れば言うならば真のおかげが身に着いて来なければならぬ。家にも備わって小なければならん。所謂私共が日々信心の稽古をさせて頂くと云う事は、そういう愈々真から誠を求めて所謂、真の信心をさせて頂くと云う事にあるのです。真の事が所謂、本当な事が分かると云う事はどう云う事かと言うと、何時も心の中に喜びが湧いて来る。どの様な場合でも心が安らいでおる安心であるね。所謂和らぎ喜ぶ心と云う物がですね。何時も私共の心の中にね。信心を頂いておると言う事は有難い事だと
。信心を頂いておると云う事は、本当に有難い事だと言う事がです。心の中に感じられるね。そう云う信心を一つ見に付けて行かなければならない。心が何時も和らいでおる。心が和らいでおると同時に、心が何時も安らいでおる。どんな場合であっても、心が安らいでおると云う事は、安心であると云う事ね。その安心を願い安心を求めて行くと云う事は、真の信心を分かると云う事でありますね。
合楽で最近しきりに言われます。言わば極楽の世界ね。真善美の世界。所謂嘘のない世界。善は悪の無い世界。汚い物のない麗しの世界。そこから、貧、争、病のない世界の顕現されて来る事になる。争いのない世界病気のない世界、貧乏のない世界と言うのです。そういう世界が私共の心の中に家庭の中に、それが社会に広げられて行くと云う事が、真の道が広がって行くと言う事なのです。
そう云うおかげを目指させて貰うて、信心の稽古をさせて貰う。そこで真の事が分かると云う事はどう云う事かと。しかも体験を通して分かると云う事は、どう云う事かとと言うと、この世の中に起きて来る、一切の事柄が全て神様のおかげによる物だと。神様の御働きによるものだと。それを個人差は一人ひとりあります。一人ひとりほんなら抱えておる問題が違う様にです。けれどもその問題とかその難儀その物がです。神様のお働きであると分からせて頂いてね。それをまぁ合掌して受けて行くと言うのです。
昨日一昨日でした。十九日二十日が久留米の二十日の日が久留米オリンピックで御座いました。十九日が今の市長さんの、市長さんを励ます会と云う会が御座いました。しかもそれが野外での事で御座いますから、まぁ何時も大変な事をお願い致しますけれども。万事天候の上にお繰り合わせを頂きます様にと云う事であった。ご承知の様にもうあの十九日の朝私が起きましたら、もう本当に土砂降りで御座いました三時半頃は。それが朝の御祈念が終わって、御理解が終わって八時頃から小止みになりました。
そしてお天気になりました。そしてまぁ時々小雨が降ると言う様な感じでした。ね。こら市長さんの願いだから、神様が特別聞いて下さると言う事じゃないと言う事をです。是はね十九日の日は市長さん、言うならば個人の事であった。それでも矢張り神様が願いを聞いて下さって、昨日のお話を頂いておりますとです。返って小雨の中に一同の者がですね。油断は出来んとそんな気を致しました。
同時にその日は予想以上の人が集まりました。と言うのはそういう言うならばお湿りの後ではあるし、小雨模様ではありますのでです。日頃集まって頂けなかった農家の方達が沢山集まって頂いた。本当に神様のおかげは何処にあるか分かりませんという、お礼お届けでした。市長さんああたも大分信心が分って来なさったですねと言うた事でした。そして二十日の久留米市民のオリンピックの、久留米オリンピックにはです。
もうそれこそね。もうそれこそ暑くもない、寒くもないという様な好天気に恵まれて終わる事が出来たと言う。もう何時も本当に大変な事をお願いに参りまして、真に相すみませんと言う様な、お詫びやらお礼やらのお届けが御座いましたね。確かに世間には様々な神様、仏様が御座います。先日の新聞を見せて頂いておりましたら、日本全国のご利益新たかな神仏という、なんかご本が出ている。それにはそれぞれの、商売繁盛を受け持っておられる神様、御産の神様ね。
もう中には夫婦別れをする、それから又三角関係専門の神様と言った様な神様が、もう個々ある訳ですね。けれどもその中に、天地が自由になると言う程しの神様は御座らんですなと言うて、あの一緒にご飯を頂いておる、高橋さんと久富さんに話した事でした。もし天地が自由になると神様が御座ると言うならば、合楽の金光様て、知っとるなら書くでしょうけれどもね。
と言うても矢張り、私共が思わせて頂くのにです。そういう天地が自由になると言う様な程しの事を、神様が聞いて下さると云う事はね、どう云う事かと、まぁ私共が拝ませて頂いておる対象である所の神様が、どういう偉大な大きな神様であるかと云う事を、先ず分らせて貰う。しかもその神様がです。何時も私共のバックにあるんだ。何時も私共はその神様の御守護を受けておるんだと云う事を分からなければならない。
様々な問題が例えば、起きて参りましても、痛い痒いがありましても。降る事があっても照る事があっても、これ一切が神様のご都合による事だと云う事ね。又は氏子におかげを下さろうとする働き以外にはないと言う事実をです。私共が体験によって段々分からせて頂く。今朝からの御理解の中に、私が皆さんにお尋ねをする様な形で、話を聞いて頂いた。どうでしょうか皆さん、こうして沢山お参りになっておるが、皆さんの心の支えになっておるものは何でしょうかち。
皆さんの支えになっておるもの。人と言う字はこうね。持たれ持たれつと言うのが、人と云う字になっておる。あなたの持ちつ持たれつになっておる、その心はあなたの心を支えておるものは、何でしょうか一体。と言う様なお話でしたね。ある方から聞きました。もう本当に人前で恥をかかせられた。もうその事を思うとです。もう十年も経っておるけれども腹が立つ。必ず一遍は見返してやらなければならない。
おかげでです、私はそれ以来にね。もうそん奴に負けちゃならん。それを見返してやらなければならんと思うただけで、朝目が眠かってもパッチリ覚める。仕事にもおかげで勢が出る。だからもう本当に、憎うしてたまらんと云う心でもです。その人の心を支えておる訳です。おかげで朝寝坊しよったのが、もう朝早起きする様になった。人が五時間働くとこはです。一時間余計に働かせて貰うて、今に見ておれ見返してやらなければと言う、その根性が支えになっておる。色んなものが支えになります。
我情我欲が支えになっている人もありますね。とにかく金だ金だ物だ物だと、もう、金やら物やらをただ集めると云う事だけに、その為ならばです道を選ばない。人が迷惑しても一向知らん顔である。それこそ人の茶碗を叩き落してからでも、儲かる事にならば平気な事をやる、平気にそんな事をやってのかすと云う様なです。事はもうその人の我情我欲が、その人の心を支えておる訳です。だからこの様な場合には、私はもうそれが生き甲斐。金なら金を貯める事が生きがいだと言う様な事を言うんです。
けれどもだんだん年を取ってです。お互いがほんなら人生の終着駅と云う様な年配になって参りますとです。物でもなかった、金でもなかったと云う事が分かって来るでしょう。これはね支えになっておる何が支えになっておるかと。そこでこれならもう絶対人間の幸福の条件の全てが足ろうて来る。もうこれはもう絶対だと云う事はどう云う事かと言うと。いうならば信心が何時も、私の心の支えになっておると言う事。
しかも真の信心であると云う事。その真の信心の中心は、何処かと言うと、和らぎ喜ぶ心であると云う事。どんな場合であっても和らいでおれれる。どんな場合であってもお礼が言えれる。そう云う事実を日々の体験の中から、教えに基づいてですね。例えばです信心させて頂よって、もしこう云う事が起こったら、去年の私なら腹が立って堪らなかっただろうけれども、段々信心が分かって来ると、その事に対してお礼を言えれる様な心の状態が開けて来ておるです。
だからそういう心の状態が愈々ですね。私は広がって行くと言うか育てられて行くと言うかね。それが身に着いて行く所の信心であります。そこで疑わない信心が薄いとですね。自分の都合良うなったはぁ奇跡的なおかげを頂いたと言う時には、もう本当に有難いけれどもそれと反対の事が奇跡的に、今度は起こって来る反対の事がですよね。信心しよってどうしてこう云う事がと言う様な事が起こって来るんです。そういう時にですね。その事に対してお礼が言えれる。
又はその事に対してですね。是ほど信心するのにと云う所から、神様不審の心が起きて来る。神様もあまり当てにはならん。神様神様だけじゃいかん。やっぱり我情も言わなければいかん、我欲もしなければいけないと言う様な事になったんでは、信心の稽古になりませんね。だから絶対神愛ですから、その絶対信を持って真を追求して行く所に信心の稽古があるのです。この頃からもうよそはもう本当に不景気、不景気と言うのに私の方だけは、こんなにおかげ頂いても良かろうかと言う様にその繁盛して。
お礼を言うておられた。所がここ四五日前から、ぴったり商いが止まった。はぁこの頃あげんお礼言いよったつは、腑の良かったつじゃったばいなと。はぁこがしこお参りしよるばってん、こげんよそより信心の無か人所よりか売れない。そう言う様な思い方では信心が進まんのです。その証拠にはその事をお届けされましたら、神様からこの波のうねりをこう頂いた。波がうねるですね。高く低くその事によってです。言うならば絶対信を与えよう。本当のおかげを下さろう。
本当の力をより下さろうとする働きである事が分からせて頂いての日々でなからなければならない。例えば大きな工場があります。例えばほんなら八幡の製鉄所の横を通ると、それこそ、もくもくとあの黒い煙が立ち昇っております。どうして信心するとにこげな黒か煙が出るじゃろうかという事はありません。もし煙が出ていないとするならば八幡の製鉄所はです。もう溶鉱炉が止まっておる時。もう活動があってない時なのです。そうでしょうが。ね。そのもくもくと出る煙に対してです
。今神様の生き生きとした御活動が始まっておるんだと分からせて頂く時に、黒い煙にも又お礼が言える訳であります。是もある方が矢張り商売不振のお届けをなさいました。神様にお願いさせて貰よりましたら、堅いその岸壁の様な所をツルハシでこうやって石を割って頂きよる所を頂いた。その小さく割れた石をスコップで誰かがこう一つ一つすくってはこうやってるですね。神様がすくう為にはねすくう為には矢張りこのツルハシで、そのかたくな心を一つ細かに砕いて貰わなければいけない。
そういう働きを受けておる時だと思うて、お礼を申し上げなければいけない。自分のね頑固な心とか素直でないとか。是ではおかげが頂けんと思うけれども中々改まれない。そこで痛い思いでもさせる時には、神様がツルハシでこうやって砕いて下さりよる時なんです。救いたいばっかりすくうてこうやって取ってやりたいばっかりなのです。だからそういう私は信心が身に着いて行く。そういう信心の稽古をさせて頂くと云う事ね。
久留米の市長さんじゃないですけれども、あれだけお願いしとったが何時もお願いしてから、本当に天気のおかげを頂くがやっぱ腑の良かったうじゃろ。今度俺が選挙のなんなんの時には雨が降ったと言わずにその結果を見てね。例えば小雨の中をただ縫う様にね。まぁおかげを頂いたけれども、小雨状態であったからこそ、人も沢山集まられない人達が集まって、予想以上の人達が集まった。それでおかげを頂いてと、その事にも矢張りお礼を言うておられる。
あくる日の久留米オリンピックにはです。是は言うなら何と言うでしょうか。もう個人の事ではない。久留米市民の事を思うての事ですから、神様も矢張りね。芯が通っておるからお聞き届けを下さったんだ。と言う事になりますですね。ですから言うならばです、降っても照ってもおかげだと言う事ね。そういう信心が分かると言う事が、私は真の信心だと思う。そこで今朝から私が、皆さんに申しました様にです。
皆さんの心の支えは、一体何だろうね。今も申しました様に、もうとにかくあいつが憎うてたまらんというその心がです。私が一生を支えてくれた。そして私が不精もんになろうとする所を、励ましになった。朝寝た坊じゃったつが、私が朝早起きする様になった。そして一遍はあいつを見返してやらなければならないと言う根性で、言うならば私の心の支えになったと言うのであっては、幸せにはなれませんよね。
金を貯める事に、いうなら我情我欲でです。我情我欲が自分の心の支えになっておる。成程我情我欲で立派な家も建った。我情我欲でたくさんな金も貯まったけれども、その貯まったあかつき建ちあがった暁に、果たして幸福の条件と云う物が足ろうて来ただろうか。お金は出来た物は出来たけれども、地位も出来た名誉も出来たけれども、それでは幸せではないと云うこと。私共がです本当に私共の心を何時もです、寝ても覚めてもです。いわゆる金光様しかもその金光様の内容がですね。
どの様な場合であっても和らいだ心。どの様な場合であっても喜びの心を頂かせて下さいと言う願いの心が、そういう信心が何時も自分の心の支えになっておる生き方をするならばです。これはもう絶対先程から申します、極楽の世界が顕現されます。真善美の世界に住む事が出来ますね。病気のない争いのないそういう世界。そういう世界に住まわせて頂いてこそ初めて真の、合楽示現活動が出来るわけで御座いますね。
昨日一昨日でしたか、福岡の川上さんがお夢の中に頂いておられるのにです。伝道の条件と云う事です。いうならば道を伝えて行く事の為の条件です。それには先ず自分自身の心がです、こういう有難い神様を支えに頂いておる。しかもその神様を頂いておる、その内容がです和賀心を求めておる。どの様な場合であっても、そういう心を頂かせて頂きたいと言う願いが、何時も私の心を支えておるという生き方にならせて頂く時に、もうそこから極楽が始まります。その有難い心が、示現活動に及んで行く訳です。
今朝から朝の御祈念に、お参りをしてみえた方が。まだ最近の信心です。奥さんの里が志賀島と言う福岡にあります。それで夫婦で段々おかげを頂いて、本当に信心の有難い事が分からせて頂いて、少しでも人にこうやって伝えていこう、話していこう。その話をしておったから、その志賀島のお里のほうでも、一遍そういう話を聞きたい。またここにもお参りなさった事があります。そこでこちらからも親戚の誰それも行くと申しますから、秋永嘉朗先生をと言われるんです。
秋永嘉朗先生を是非その、模様見に来て頂いて、そしてみんな親戚中又、その事をお話しを聞きたいと言う人達に集まって頂いて、今日行って頂きたい。また自分達も行きたいと思うからというお届けがありました。有難い事ですね海を渡った、向こうの島にまで、合楽の御比礼が輝いて行くのですからね。先程お届けが佐田さんからあっておりました。先生今日は、私もうとにかく私の関係の方たちが、みんなお参りをして来ております。先日矢部の、矢部の山奥、矢部の山奥というが私が行ったことがない。
そらもうこの頃から、ここの先生方が参りましたが、もう本当にこう云う所にね。金光様の信心を頂いておる人があると思うたら、しかもお参りさせて頂いたら、そこに金光様のお書き下げとか、御神米とかお神様をこうお祭りしてある。もうこんな山奥にこういう金光様の信心が伝わっておると思うたら、もうそれだけで感動だったと言うて帰って来ました。佐田さんところのご一家から、ここから三四人の方達が参りまして、それからあちらの山間部落でしょうかね。
その部落の方達が十二人か三人か集まられて、もう熱心に時間の経つのを忘れて、その信心共励があった。こう言う様な事を時々、こういう機会を作って頂きたいと言うて、それから今日はその後藤さんが皆さんをですね。あの一遍には自動車が小さいから参られんから自動車に乗るだけずつ、今度月次祭たんべんに参ろうとそん時約束しておられたと云う事で御座いましたが、今日も矢張り四人連れでお参りになっております。
自動車で一生懸命走って来て、やっぱ一時間半かかるそうです。それから是も今度は反対のほうの、大分のほうの日田の私はあちらの事を日田の山奥、日田の山奥から参って来るち言いよったが。あの深耶馬渓のまた山奥の方だそうです。佐田さんのやっぱ遠い親戚に当たりますね。その方が夫婦で参ってきておる。はぁあーた方今日お参りが出来た。それでその佐田さんの奥さんの里にもその方達が寄って来た。
そしたらもうそこで、あの私達も今お店を閉めて、一家中でお参りしようと思うから、準備しよるとこだと言う訳です。おったとね。もうそれこそ自分のお導きとか、自分の関係の方達が、今晩は全部お参りをして来ておりますと言うお届けがあった。それは、神様の所謂、示現活動による事ですけれども。本気でそういう示現活動におかげを頂こうとする所に、神様のそういう不思議な働きが始まるのです。福岡の松岡さんがほんの行きずりに、その方の難儀な話を聞いてからほんなら。
是非一遍合楽にお参りしなさいと言うて、以前にあのお導きをしておられた。今日はわざわざその人の所に寄ってこられた。二日市かどっか辺ですから。そして親子をまたお導きして参って来ておられます。今日はあんた方が参って来たごたるばってん、あんた達が参って来たっじゃないよ。ちょっと見てご覧と言うて、丁度お届けの所を松岡さん、それから何じゃったかな三つ続いた。何じゃったかね。三人松の字がね三人続いた。こう言う様な事でも、神様が自分が参って来た様であるけれども。
自分が参って来たのじゃない。神様のお許しを頂いて、神様のお働きによるものである事が分かる。と言うてそういう神様が、自由自在の働きをなさるかの様にあるけれども、ほんなら神様だけでは、どうにも出来ない。それこそ真の信心を目指させて頂いて、合楽示現活動に参画させて頂く人達の、そういう一つの迫力というか、そういう働きと働きが一つになって、こう言うその手の、音が出て来る様なものだと思うのです。ですからどうでも、私共が一つ真の信心を目指さなければならない。
真の信心とは結局本当な信心。本当な信心を頂けば心のなかに安心が生まれて来る、喜びが湧いて来る。ただ合楽にお参りすれば、もう誰でも極楽に行けると云う事ではない。どの様な事柄であっても、それを神愛と受けるところにです。神様の神愛だけしかない事が分かって来るところにです。あれもおかげ、これもおかげと思えるから、極楽なのです。もちろんそういう心の状態の上にです。
人間の言うなら幸福の条件の全てが足ろうて来る。言うならば和らぐ心、喜ぶ心を願い求めての信心。どの様な場合であっても、是を和らいで受けなければならない。是を喜びで受ける為には、どういう信心させて頂いたなら良いかと言う様な心掛けが、何時も自分の心の支えになっておると言う様な信心をするなら、幸福の条件は、必ず足ろうて来ると云う事であります。今日は真の信心と云う事を聞いて頂きました。
どうぞ。